私は2003年初当選以来、農水委員として紙智子参院議員とともに北は北海道から南は沖縄まで歩きました。05年香港・WTO(世界貿易機関)閣僚会議に2人で参加し、世界の運動に刺激されて帰国した後、私は農水委員を降りることになり、一晩泣きはらしました。
当時衆院議員は9人、全部の委員会に配置できないのです。今や厚労委員会の“主”のような私ですが、紙さんはそれから9年間も農水委員1人、文字通り「農林水産の女神」でした。
秋田県大潟村に2人で行った時のこと。国策で進めた大型干拓なのに、入植直後に減反が始まり、協力派は難しい転作に苦労し、減反守らず作る側には、国が輸送会社に圧力かけて妨害!ところが「構造改革」が始まると、国は手のひらを返して「これからはあなた方が主役です」。逆に減反を守ってきた側は裏切られたことに。紙さんが「胸が痛かったね」とつぶやいたのは、同じ思いでした。どちらも国の農政にほんろうされた犠牲者でした。そんな経験を重ねたからこそ、紙さんの議席は「なくてはならない議席」なのです。
辰巳さん、仁比さんの議席を失ったことは正直悔しい。でも2人をはじめ全国の候補者たちが次への決意新たに活動を開始しています。「あのお花のポスターすごくすてきだったね」と、いつものお店に言われました。訴え続けた「暮らしに希望」をともす政治めざし、新しい仲間とともに歩き始めます。
※しんぶん赤旗2019年7月27日付「北海道・東北のページ」掲載のコラムで、タイトルを編集したものです。