衆院憲法調査会は十日午前、「国民の権利及び義務」について自由討議しました。
日本共産党の高橋千鶴子議員は、戦後、憲法が定めた基本的人権の保障のため、生活保護法や労働基準法など一連の法整備がされたが、日米安保体制下の法体系や企業活動最優先の政治のもとで人権が侵害される事態がつくられてきたと指摘。生存権や環境権、労働者の権利をめぐり多くの裁判で、人権を侵害する公権力や大企業などと国民の不断のたたかいがあったと述べました。
今日の改憲の主張は、企業が利益を上げるために労働者や中小企業を犠牲にする「構造改革」路線と深く結びついていると述べ、国民に「国防の責務」を課すとの主張は、軍事優先のもので基本的人権の尊重とは相いれないと批判しました。
民主党の大出彰議員は、侵略戦争と人権抑圧への反省から九条と人権規定が生まれたとのべ、戦争の放棄が一番の人権保障だと主張しました。
同党の園田康博議員は、環境権保証のための法整備の必要は認めながらも、政府の恣意的な法律のねじまげを許さないために環境権を明記すべきだと主張しました。
自民党の保岡興治議員は、小泉首相の靖国神社参拝は当然だとのべ、首相の行為が違憲とされないよう政教分離の原則をゆるめる憲法改定を主張。船田元議員も、社会的儀礼や習慣まで否定されるべきではないとのべ、行政と宗教の分離の原則の緩和を主張しました。
また、自民党の野田毅議員は、表現の自由とプライバシーの調整が必要だとして、報道関係者に人権配慮の義務を課すべきだと主張しました。
(2005年2月11日(金)「しんぶん赤旗」より転載)
――― 議事録 ――――
(発言一巡目)
○高橋委員 日本共産党の高橋千鶴子です。
国民の権利及び義務に関する規定を定めているのは、具体的には、日本国憲法の第三章、十条から四十条であります。
その特徴は、第十三条の幸福追求権や十四条の法のもとの平等の原則など総則規定を設けた上で、精神的自由、経済的自由、人身の自由、さらには、国家の行為を請求し国家を形成していく国務請求権や参政権、そして第二十五条など、社会的、経済的弱者を保護して、福祉国家の理想を積極的に実現することを国家の義務とする社会権を定めていることです。
これは、明治憲法下において国民は天皇の臣民とされ、信教の自由、言論、著作、印行、集会及び結社の自由などの権利は法律の範囲内という制限がつけられるなど人権が厳しく抑圧されたことへの反省と、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言などの自由権とともに、ワイマール憲法など、二十世紀の社会権の広がりを憲法上に反映させた、現代の立憲主義の流れをくむものであります。憲法第九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と述べているのもこのためであります。日本国憲法が保障する基本的人権は、諸外国の憲法と比べても豊かな内容があることは、本調査会の参考人などからも多くの指摘のあったところではなかったでしょうか。
戦後、日本国憲法が定めた基本的人権を保障するために、生活保護法、教育基本法、労働基準法など一連の法整備がされました。ところが、日米安保条約によって日本国憲法に基づく法体系とは異なる一連の法体系がつくられてきたこと、また、企業活動最優先の政治のもとで人権が軽んじられる、あるいは侵害される実態がつくられてきました。これに対し国民は、憲法に依拠して要求を挙げ、運動に取り組んできました。
まず、憲法二十五条の生存権についてでありますが、この問題で有名なのは、一九五六年の朝日訴訟です。低過ぎる生活保護費は憲法違反として国を相手に争ったものでありますが、人間の尊厳の価値を問う裁判でもあったことから人間裁判とも言われ、これを支援する運動は大きく盛り上がりました。第一審の判決は、憲法二十五条にある健康で文化的な生活水準とは、単に辛うじて生物として生存できる程度のものであってはならない、その基準は裁判で争うことができると判示しました。この訴訟を通じて生活保護費が実質的に引き上げられ、労働者の賃金にも影響を与えました。
今、一部に、憲法の生存権の規定は戦後直後の国民生活を反映したもの、これからは、自立と共生の時代という言い方で社会目的としての権利及び義務といった中に憲法二十五条の生存権を集約し、国民への社会保障その他の費用負担の義務を憲法に明記すべきとの議論があります。費用を負担して初めて権利が生ずるということになり、現在、例えば、国保税を払えないために二十五万人もが国保証をとめられ、命にかかわる問題が全国に起こっているように、生存権保障のための国の責任を放棄するものと言わなければなりません。
いわゆる環境権についてはどうでしょうか。
六〇年代から七〇年代初頭、深刻となった公害問題に対して当時の運動家や弁護士が、憲法十三条の幸福追求権、二十五条の生存権に依拠して国民には良好な環境のもとで生きる権利があると主張し、一連の裁判闘争に取り組み、勝利しました。これに国連が注目し、一九七二年六月には国連人間環境会議で、環境は人間の福祉と基本的人権享受のために必要不可欠なものと宣言されました。今日、環境権と呼ばれる権利は、日本国憲法とそれに根差した国民の運動が生み出した権利であり、世界に通用する普遍的な権利になりました。
先ほども議論がありましたように、環境権、プライバシー権など、憲法制定時には想定できなかった新しい人権を憲法に明記すべきなどの主張がありますが、今では、現行憲法上も環境権は保障されるものであることは、本調査会の参考人なども共通して述べていたとおりだと思われます。
労働者の権利をめぐっても、結婚、出産退職の強要や賃金、昇格の差別など、企業の横暴に対して多くの女性労働者が裁判で闘ってきました。そして、司法を動かし、職場を変えてきました。過労死を労働災害として認定させてきたことも、労働者の、人間らしく働く権利を求める運動によるものであります。
こうして見てくると、憲法第十二条が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と定めているように、まさに、戦後の国民の自由と権利をめぐる歴史は、それを侵害する公権力あるいは大企業などと国民との不断の闘いの歴史であったと言えるのではないでしょうか。
今日、企業のリストラや、正社員から派遣、パート労働への置きかえが進んでいます。多くの青年が雇用の調整弁として安易に首を切られ、フリーターなど不安定な状態に追いやられています。
小泉総理は、先日の衆議院予算委員会において、企業が利益をふやしているのに家計所得は減っているという我が党の指摘に対して、企業が過剰雇用と債務を抱えており、今ようやく足かせの部分が軽くなってきたと答弁をしました。企業が身軽になり利益を上げるためには労働者や中小企業が犠牲になってもよしとする考え方には、強い憤りを覚えます。今日の憲法改定をめぐる主張は、まさにこの構造改革路線と深く結びついたものであります。
例えば、自民党の言う、ひとりよがりの人権主張ではなく、国家と国民が協力して共生するのだとして国民には自己努力を要求する一方、企業その他の経済活動の自由は明記されるべきだと言われております。今の憲法のもとでも大企業は自由勝手に振る舞っているのに、その上憲法に経済活動の自由を明記すれば、一層企業優先の社会になるのではないかと懸念されます。
環境権においても、自民党の改憲大綱原案の中では、個人が権利請求できないプログラム規定として明記するとされています。これでは、行政に環境保護の努力義務を課すだけで、国民は憲法に依拠した環境権保障の裁判を闘えなくなるとの指摘もあります。現憲法は、個人の尊厳を最大の価値とし、国民一人一人の生存権を保障するために、ルールある経済社会づくりをこそ要請しているものです。
さらに、国家の安全という公共の価値によって国民の自由と権利を制限する、国民に国防の責務を課すという主張は、国民の自由と権利よりも軍事を優先するものであり、現憲法の基本的人権の考え方とは相入れないものと考えます。
今日の日本社会は、なお解決しなければならない人権侵害の実態があります。昨年一月の立川での防衛庁宿舎へのビラ配布に対する不当逮捕、起訴、昨年十二月、葛飾区でのビラ配布への不当逮捕、起訴などは、憲法が保障する表現の自由、政治活動の自由を侵害するものであります。立川の事件は十二月に東京地裁が無罪と判決したにもかかわらず、その直後に葛飾の事件が起こされました。憲法調査会は、本来、こうした日本の人権状況がどうなっているのか、憲法に反する状況はないのか、基本的人権の保障を妨げている原因は何かなどを調査するべきであると考えます。
日本国憲法の豊かな人権規定を再確認し、立法、行政、司法など日本社会の各分野でこれを生かしていくことこそ今日求められます。憲法九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、」中略「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と、将来に向けて発展させていくことも見通しています。
日本国憲法の人権規定は、現在だけでなく、将来生起する人権についても対応し得る懐の深い構造を持ち、国民はそれをさらに生かし、豊かに発展させていくものと考えます。
以上です。
(発言二巡目)
○高橋委員 本日の各委員の発言を興味深く聞きました。新しい人権についてそれぞれの角度から規定すべきであるという意見が多かったと思いますけれども、私は改めて、現憲法がこれを包括していること、憲法の精神を豊かに生かし発展させる努力こそが求められていると考えております。
憲法第十三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は国政上最大の尊重を必要とすると定めています。この幸福追求権が新しい人権をまず含んでいるというのが、憲法学者の一般的な議論であります。この幸福追求権では、限界論があるということもよく言われることは承知をしております。しかし、幸福追求権によって基礎づけられる個々の権利は、裁判上の救済を受けることができる具体的権利であると解されるようになったという指摘もあります。
例えば、夜間飛行差しとめを求めた大阪空港公害訴訟で、大阪高裁判決、一九七五年は、十三条と二十五条を根拠に、平穏、自由で、人間たるにふさわしい生活を営むことも最大限尊重されるべきものとして、住民の訴えを認めました。プライバシー権は、十三条を根拠に、私生活をみだりに公開されない権利として判例上定着しています。一九六四年、東京地裁の判決などがあります。また、知る権利は、二十一条の表現の自由を国民の側から支えるものとして広く認められるようになっており、このように、憲法は新しい人権に十分対応できるものと考えています。
また、環境権が叫ばれている一方、例えば九三年制定の環境基本法も、自民党あるいは官庁の抵抗で環境権という言葉が盛り込まれませんでした。先般の障害者の権利という問題でも、基本法に盛り込まれなかったことは記憶に新しいことかと思われます。
家族の尊重ということも言われました。しかし、そのためにも、働く皆さんが一方的な出向、単身赴任を命じられる、長時間労働などで家庭に帰ることができないような実態がある中で、労働基準法を改悪するのではなく、しっかり守り拡充することこそが求められていると思います。
これまで指摘されてきた新しい人権については、憲法が本来持っている本当の力をしっかり私たち自身が深め、それをまた、不足するというのであれば、立法、行政、司法、あらゆる努力によってしっかりと担保することが求められていると考えております。
以上です。