ちづ子へのエール住民とともに(質問のエピソードと会議録など)

プロフィール

1959年9月16日 秋田県能代市に生まれる

1982年3月 弘前大学人文学部を卒業し、青森市の私立東奥女子高校の英語教師となる

1999年4月 青森県議会議員に初当選

2003年11月 衆議院総選挙で初当選(比例東北ブロック)

2005年9月 衆議院総選挙で2期目の当選(比例東北ブロック)

2006年1月 党准中央委員となる

2009年8月 衆議院総選挙で3期目の当選(比例東北ブロック)

2010年1月 党准常任幹部会委員となる

2010年9月 党常任幹部会委員となる

2011年3月 党東日本大震災現地対策本部長となる

2012年12月 衆議院総選挙で4期目の当選(比例東北ブロック)

2014年12月 衆議院総選挙で5期目の当選(比例東北ブロック)

2017年10月 衆議院総選挙で6期目の当選(比例東北ブロック)

2021年10月 衆議院総選挙で7期目の当選(比例東北ブロック)

現在、党常任幹部会委員、党衆院議員団団長、衆院国土交通委員、衆院東日本大震災復興特別委員、党国会議員団国土交通部会長、党障害者の権利委員会責任者など。

松本善明議員からのバトンタッチを伝える「東北ブロックニュース」No.59(PDFファイル)

高橋ちづ子の生い立ち

家業のすし屋を手伝い─親の苦労を見て育った少女時代─

1961一九五九年秋田県能代市に生まれる。父はすし屋になるため修業中で家に不在。三つ上の姉と二人の子供を、母は新聞配りをしながら育てた。

小学校入学と同時に小坂町にうつり、すし屋を開業。町で一軒だけのすし屋。会社の宴会や盆、正月など忙しい毎日でした。

ちづ子はおしぼりをたたんだり、醤油をさしたりお茶をいれたり、お盆運びなどのお手伝いも。日曜日は30分車に乗って父親の仕入れにつきそい、待っている間、父は必ずケーキ屋さんでミルクと卜ーストを頼んでくれたのが楽しみだった。

休みの日が忙しい商売だったため、年一回の家族旅行は重要な行事だった。隣県の岩手(岩泉や花巻)から会津、月山、松島等々、東北の各県もずいぶん歩いた。父親の好みで寺や神社が多かった。もっとも中学の美術の先生の影響で大仏や観音さまが大好き。

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「ちづ子は良い子だ」渡辺先生との出会い

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小学校時代、赤面症で授業中手を挙げることができなかった。三年間担任した、渡辺睦子先生が生涯忘れられない恩師に。

どもりの男子生徒がつっかえながらも音読をしたとき、「読めるじゃない」とつぶやいただけで「ちづ子は良い子だ」とみんなの前で抱っこして感激 した先生。「五色のしか」という国語の授業参観で「(王様は)感動した」という答を引き出すために何度も手を挙げ、「そのとうり」と先生に言われた時の喜 びがきっかけで、手を挙げることができるようになった。

四年生の時、班単位で何でも討論しあうクラス運営で民主主義を学び、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉に出会った。イ ラストやレタリングが好きで、新聞係り、生徒会では小学校で初めて女子の「良いこの会会長」(町内の子供会)になり、同じく女子の副会長と力をあわせて頑 張った。

先生になりたい─青森市の私立東奥女子高校の英語教師に─

中学時代、運動おんちというコンプレックスを克服するために、軟式テニス部に入部。筋トレや炎天下の練習のおかげで、試合で活躍できなかったものの、体力とフットワークが身につき、今に生きる。新聞部長になり、多忙を極める。高校は秋田県立大館桂高校(現在の桂桜高校(共学))に。

一年間、下宿しながら受験勉強などまじめな生活を送るが、物足りなさを感じて二年生になってからソフトボール部に入部。練習ではばんばん打てる のに本番ではアガッて全然だめ。ライトだったが顧問の成田先生は「お前はボールをとってから投げるまでの時間がすごく短いのがいいところ。ライトでもアウ トにできるのを期待して配置したのだから」といってくれた。

1978年弘前大学人文学部に入学。回りはいろいろなところから来た知らない人ばかり。「自分を変えたい!」と大学生協の総代、寮役員など引き受けてみた。漫画同好会を立ち上げた。平和問題や消費税問題、教育改革など、活動のなかで学んだ。

教師になりたいと初めて思ったのは、そういう問題意識がめばえて、「本当の事を教える先生になりたい」「人の人生に少しでも関わるような仕事が したい」と思ったから。出身地の秋田県の採用試験に落ち困っていたとき、青森市の私立東奥女子高校(現在の東奥学園高校(共学))の生徒募集の新聞広告を見て「先生は募集していませんか」といきなり、手紙と履歴書を送る。偶然が重なって、なんと英語教師として本採用になりました。

片道二時間の家庭訪問─補修授業から企業訪問、生徒の就職解決に全力─

plofile_ill03東奥女子高校で七年間教師を勤める。交換日誌をしたり、友達のようにこどもたちとつきあった。進路指導を担当し、補習授業から企業訪問まで多忙だった。当時は求人票の整理が膨大で、今から見ると夢のよう。それだけに高卒の就職問題は県議としてライフワークに。いじめや不登校、家出など、さまざまな問題にぶつ かったが、夜中に車で心あたりを探したり。私立のため市外の生徒が多く、放課後片道二時間車を飛ばして家庭訪問を重ねたことも。

83年2月、民主青年同盟に加盟。組合のない職場でこれからの生き方を模索していた時代だった。今の社会のゆがみは、アメリカいいなり、大企業優先のあり方に問題があること、どんな問題も科学的に考える(実証し総括など)ものの見方、考え方に共感、人生の「ら針盤」を得たと確信!仕事は忙しかっ たが、学校帰りに教え子の勤め先を訪ねて民青新聞を勧めたり、配達集金も担当。「松本千津子」(当時松本清張を読んでいた)のペンネームでカット付通信を 送った。最大のヒットは、「トマホークくるな」の全国集会が三沢市で開かれたとき、ルポを送り、一面を飾って通信員賞をいただいたこと。

最後に担任した生徒たちと(1988年)

最後に担任した生徒たちと(1988年)

夢中で活動している時、断る理由が何もなくなって83年11月に入党。「どうせなら、もっと勉強も活動も十分やれる学生時代に入ればよかった。でも小林多喜二と同じくらいだからいいか!」

翌朝、学校へ通ういつもの道なのに、なぜか心がはずんでスキップするような感じだった。「ワーイ、私も日本共産党の一員になったぞ」

私学の教師という身では公然と活動することは難しい。そういう中で、各種集会への参加、企画など活動の幅は広がっていった。職場では手描きの学 級つうしんを毎週発行、読ませたい本の紹介、文庫もそろえた。先生方も各自つうしんを出すようになった。当時、「社会党なのかな?」と思っていた先生もい た。

──民青新聞の青年文化コンクールにたった1回出した作品、佳作だった──
「曲げた髪 精一杯の 自己主張 にらみ返す目 幼さ残る」
生徒たちを思って書いた一作。

参院補選の候補者として(1991年)

参院補選の候補者として(1991年)

88年秋田市内の病院で長く闘病生活をしていた父親が他界。

その年党の候補者に要請されるが教師をやめたくなかった。しかし活動を通して知り合った和弘と結婚、出産という転機がおとずれ、退職を決意。

一九八九年六月、日本共産党青森県委員会に勤務。一九九一年二月の参議院補欠選挙に31才で初出馬。以来衆参六回の国政選挙に立候補。一九九六年には東北ブロック比例候補になり、松本善明衆議院議員とともに、東北六県を駆け回る。

故郷小坂町ではじめての演説会。前の町長さん、中学の同級生、角の駄菓子やのおばさんなど、聞きにきてくれた。99年4月に青森県議に初当選。12月に母親が突然倒れて他界しました。

99年、県議初当選の涙・・・

九九年四月十一日、県議初当選は、現職落選とともにもたらされました。青森市での複数議席に初めて挑戦し、得票を一・65倍化!・・・しかし二議席には届きませんでした。私はその場に崩れ、泣きながらの万歳・・・

翌朝(当日)私は、いつものビラまきコースを1周して当選のご報告、選挙事務所までの道のりを挨拶しながら歩きました。「結果が出なくて出なくて心配したよ。嬉しくて涙が出た!」と喜ぶおばあちゃん。商店街では、「今噂をしていたところだよ。よかったねー」どこでも歓迎され、こんなに応援してくれた皆さんのために、働かなければ。今日から4年後の選挙で必ず複数議席を実現させる地盤を私自身がつくっていくんだ・・・体の底からふつふつと力と勇気が湧いてくるようでした。

教師の思いを生かし、教育問題を毎回質問

毎議会必ずとりあげたのは三〇人学級問題。学校の安全という点でも、教師の心の病が進んでいるという点でも、あらゆる角度から「1人1人に目の届く少人数学級を」求めてきました。日の丸君が代から学校の耐震診断まで教育問題は多岐にわたりました。市議団と連携して学校調査をした初議会、「体育館の壁に穴があいてビニールでふさいでいる。ギャラリーにつかまったらぐらぐらと揺れた」と発言した直後、「その学校はどこですか」と血相を変えて県教委が控え室に飛び込んできました。この問題はその後、国会議員団も予算獲得に奮闘しましたが、青森県はいまだに小中学校の耐震率は1割未満。地震が続く中、最も急がれる課題でもあります。教師と父母の長年の署名、請願活動とあいまってついに少人数学級に県単独で歩みだしたとき、予算獲得に苦労をしたという職員が「すぐに報告できなくてすみませんでした」と、すがすがしい顔をしていたのが印象的でした。

商工観光労働委員会から出発

最初に所属したのは水産商工観光労働委員会。雇用対策や、大型店出店などの地域経済問題は四年間のライフワークになりました。毎年、経済団体と懇談を重ねるうち、経営者協会の専務が「日経連の提言」をコピーしてまっていてくれたり、「共産党が何しにきた」といぶかしがった日商連幹部が行くたびにまっていたとばかり、話がつきないことも。青森の老舗のスーパー亀やチェーンが倒産。2000世帯もある戸山団地にたった一つのスーパーが撤退という事態になり、党と後援会がすぐに申入れや電話アンケートにとりくみ、最後は副知事に責任を迫り、スーパー誘致が実現など。

2年目は、建設公営企業委員会で、核燃サイクル問題を毎月追及。公共事業の入札制度の改善も進みました。雪問題をはじめとする地域要求では、市議団との連携で前進させました。3年目は、環境厚生委員会で、介護保険、国保税の減免制度、地域医療の確保や救急医療問題、小児医療から保育問題など。衛生監視率が全国平均より低い中、消費者参加の監視システムを提言。知事の好みでどこにでもオオヤマザクラを植える政策に反対、これは新知事がとりやめました。4年目は総務企画委員会で県、市町村財政や合併問題にとりくみました。全国1高い知事の交際費(1100万円)を引き下げさせたり、予算要求過程の透明化をはかりました。審議会委員の報酬格差を是正させ、1500万の削減効果も。

県民とともに歩んだ四年間

 7倍という大会経費傍聴が大問題になった冬季アジア大会では特別委員会開催要求を他会派と共同してとりくんで注目されました。また、この問題での見解をまとめた県議団だよりを全戸配布。これにつけたアンケートはがきには日本共産党への激励や要望とともに、「これまで県政について関心をもたずにいた自分が恥ずかしい」と一主婦の声がよせられるなど、感動をうけました。党組織や住民、国会と力合わせ徹底解明にとりくんだ県境産廃不法投棄事件。BSE問題では地元農協理事会におじゃまして要求を聞き取り、県、政府交渉へ。八戸市の一住民の告発電話をもとに、学校給食へ不適正表示米使用問題を追及、ついに教育長が謝罪など。地元紙に大きく報道されたのを見て「共産党が大好きになった」とその人は電話をくれましたが、まさに県民とのキャッチボールをしながらとりくんだ四年間だったと思います。

いまにつながった論戦

セクハラ問題で世間を騒がせた木村前知事を辞職に追い込んだのも、日本共産党県議団がいち早く申入れをしたり、委員会審議で論戦をしたことが大きな世論作りへのきっかけとなりました。今、新しい知事が「津軽海峡大橋はやめる」としていますが、この四年間で海峡大橋問題を繰り返しとりあげ、調査だけで30年、建設費が5兆円(?)、維持費だけで少なくとも年間300億円という膨大な計画を指摘し、1兆5000億円の経済効果などという宣伝自体何の根拠もないことを明らかにし、きっぱり反対の論陣をはったのも高橋ちづこだけでした。

著書

「食の安全よりアメリカが大事?」-牛肉輸入再開に異議あり!(紙智子・高橋千鶴子著) 新日本出版社 2006年11月1日出版

書評

〇この本を読み、ことを契機にして日本の政治の根本問題を知ってほしい

日本の政治が世界でも異常な一つの特徴は「アメリカ言いなり」ということです。その程度は著名な自民党の国会議員が「日本はアメリカの一州のようなものだ」と平然というくらいです。

この本は、アメリカ産牛肉の輸入再開問題を材料にして、そのことを、日本共産党の二人のタイプの違った美人国会議員の体験、質問や対談、アメリカでの調査を含めた豊富な資料を駆使して明らかにした、ユニークでちょっと他に例を見ない興味深い著書です。

「BSE問題」には日本の農民の運動が。法律まで制定させた貴重な成果が満ち満ちています。日本の国民の食と安全と、日本農業を守ったこの成果が、アメリカのもうけ主義で崩されようとしているのが現在の問題です。この本は、日本の農家の涙ぐましい努力、日本国民の食の安全を守る運動、それらの要求と活動に寄り添うようにこの問題を解明しています。

この本を読み込むことによって、日本の政治を根本から国民のためのものに変えることの必要性を多くの人に知ってもらいたいと切に思うものです。

(元衆議院議員 故松本善明 氏)

〇「食の安全よりアメリカが大事?」-牛肉輸入再開に異議あり!

本書は、BSE(ウシ海綿状脳症)発生に伴う、米国産牛肉の輸入禁止と再開の経緯についてのレポートである。

BSEの原因はウシに肉骨粉を与えたことにあるが、そもそもそれは、くず肉の処分と効率的肥育のためであった。日本でBSEが発生すると、牛肉生産は深刻な打撃を受けたが、全てのウシの履歴を追跡可能にし、二重の鋭敏な検査を行うことで、安全性・透明性が確保され、食の安心・安全を取り戻していったのである。

本病についての日米両政府の施策には重大問題があった。米国での安全管理はまことにずさんで、本書で実態が丹念に明かされる。しかし、牛肉業界と米国政府は日本に強引かつ傲慢に輸入再開を迫る。一方、日本政府は、早期に肉骨粉投与の危険性を知っていながら国内での使用を放置した。米国には早期の輸入再開を約束し、国内向けには、正確な情報を隠したり、農水省に置いた専門委員会を不正常に運営してまで、輸入再開を強行してしまう。「日本は科学者のいうことを尊重しない社会です」と無念を語る元委員の言葉は、私たちにとっても重い意味を持つ。

著者の紙氏と高橋氏は、当時それぞれ参議院・衆議院で農林水産委員を務めた。両氏は科学者ではないから、BSEの学術的解説や先端的な情報を期待してはいけない。私が驚かされたのは、専門家でない両氏が、日本の生産農家と消費者とを守る立場から、必死に問題を理解し、国内外で精力的に調査し、膨大な資料を整理して大胆に国会質問や農水省交渉に当たる、その勤勉さと有能さである。それは政治家という専門職が紛れもなく存在することを思い出させる。まさに、党派を超えて尊敬されてよい。

このように本書は、BSEという新興人畜共通感染症と、日米のゆがんだ外交・経済関係という2つの難題に直面した、至って普通の女性が、国会議員の職責を自覚して苦闘してきた、普通ならざる記録なのである。それは日本社会の病巣と転換の方向を巧まずして白日にさらしてもいる。

終章は両氏の対談である。いささか安易な構成と思ったが、読めば、両氏が北海道・東北で長年活動する中で培ってきた、日本の食や農への思い、その担い手への尊敬と共感が率直に語られる。意外にも、出色の読みものであった。

(琉球大学 亀山統一 氏)

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