国会質問

質問日:2008年 6月 3日 第169国会 厚生労働委員会

臓器移植法案 ―参考人質疑

 衆院厚生労働委員会は三日、臓器移植法の三改正案について、移植推進、慎重双方の参考人から意見を聞きました。

 日本共産党の高橋千鶴子議員は「子どもの命を助けたいという点は法案への態度の違いを超えて同じだ」としたうえで、「法改正で脳死は人の死と一般化されてしまえば、たとえ家族は拒否できても、これまで通りにはいかない。見解が分かれているのに決めてしまうことをどう見るか」と質問しました。

 これに対し慶応大学の井田良教授は「合意の取り方としてはいろいろあるし、強制されるべきではない」と述べました。

 長期脳死状態にあったわが子をみとった中村暁美氏には、兄弟がこの「脳死をどのように受け止めたか」と質問。中村氏は「人の命について深く考えるようになった」とし、学校で配られたドナー・リーフに長期脳死の問題が何も書かれていないことは「不公平だ」と表明しました。

 小児科医の杉本健郎氏は、子どもの臓器移植について、脳死判定基準は十分か、厚労省は長期脳死問題を避けていないか、尊厳ある生をどう生き、支えるかという視点が必要と指摘。「多くの臓器提供者の親は、やむにやまれずした決断が果たして正しかったのか悩んでいる」と語りました。

(2008年6月5日(木)「しんぶん赤旗」より転載)

 

――― 議事録 ――――

○高橋小委員 日本共産党の高橋千鶴子です。

 きょうは六人の参考人の皆さん、本委員会に出席をいただき、貴重な発言を拝聴することができました。本当にありがとうございました。

 私自身は、過去二回、参考人質疑があったかと思いますが、どの機会も本当に重要な意見を聞くことができた有意義な機会だったと思っています。特にきょうは、臓器を提供した側、された側、そして脳死と向き合った側、そして直接執刀されたドクターなど、それぞれの立場のお話を一遍に聞くことができたというのは、本当に重要な機会であったと思います。ありがとうございました。

 私がきょう強く感じたことは、やはり、立場は違っても、ドナーでもレシピエントであっても、子供の命を助けたいというその気持ちは同じだということです。本当にその気持ちにこたえられる、そのためには何が必要なのかということを議論していかなければならないと思います。

 脳死は人の死かということにいまだ結論が出されていない、疑問が大きく突きつけられている中で、どこかで線を引き、多数決で、ここからは死であると言わなければならないのか、そこに対する大きな悩みが今ございます。

 そこで、最初に、ちょっと順番があれですけれども、井田参考人に伺いたいと思います。

 私が今悩んだと言ったことについて、井田参考人が、ちょっと前ですけれども、二〇〇四年のジュリストで、「脳死と臓器移植法をめぐる最近の法的諸問題」ということで論文を書かれているのを拝見させていただきました。

 「現行法への評価」というところで、「死は客観的に一つのものであり、本人の意思によりはじめて生死が定まる事態を承認することはできない、」云々などという、その反対理由などが当時あったということなどをいろいろ踏まえて論を展開する中で、最後のところに、今回の法改正をするのであれば、つまり「法改正により、本人の意思表示がなくても近親者の意思表示があれば足りるとする「拡大された承諾意思表示方式」に移行しようとするならば、現行の臓器移植法の基本的立場の変更を迫られざるを得ないことに注意しなければならないであろう。」とおっしゃっております。

 つまり、「脳死説の一般的承認」というふうに注釈をつけておりますけれども、そうなると、やはり、先ほど中村参考人がお話をされたことですけれども、家族が拒否できるんだから拒否する人はそれで問題ないのではないかという議論があるけれども、一般的にそれが死なのだと認められてしまうことに対する影響というのがあるのではないかという指摘があって、私、それが非常に重要ではないかなと思っているんです。そのことについて、ぜひ伺いたいと思います。

○井田参考人 確かに、私も法律の学者でございますので、私自身の法律上の見解あるいは学説というのがありまして、私自身は脳死という状態は人の死と考えてよい状態だというふうに考えております。ただ、その問題と、それから、それをほかの人との関係で説得するとか、あるいは一緒に議論してみんなで一定の合意を得ていくというときの問題は、またこれは別の問題であります。

 もし、十人の人がそこにいて、みんなで何らかの合意を得ていかなければいけないというときに、自分の意見に固執して、おれはこう思うんだ、だからそれを君たちも採用しろというふうに迫るというのは、これは合意のとり方として決してよいことではないわけでありまして、全員がみんな同じ土俵に乗れるような考え方によって合意を得ていくということは、ある意味で政治の問題かもしれませんけれども、非常に大事なことで、そうあるべきだというふうに私は考えております。

 きょうお話ししたのは、そういう意味でいうと合意のとり方の問題で、私自身、学者としては、A案をとるためには、基本的に、脳死イコール一律に人の死という考え方をとるのが一番素直だし、説明が一番しやすいし、わかりやすいし、また、それが国際的なスタンダードにもなっているということなんです。しかしそれは、でき上がった法律をどう解釈するかというときに、そういう解釈をするのが一つの理解だということを意味しているにすぎません。

 さっき申し上げたように、我が国の臓器移植法の制定の経緯に照らして、とにかく、今の臓器移植ができたときには、確かに、衆議院で一度脳死を一律に人の死とする法案が通った後、参議院で大きな改正あるいは文言を変えるという作業が行われて、とりわけ六条の三項という非常に象徴的な規定が入ったことからも明らかなように、これは、脳死を一律に人の死とするのではなくて、臓器移植の場面に限って本人の承諾の意思がある場合のみその状態を死とするんだという、学説では、我々の世界では脳死選択説という考え方がとられたというふうに理解されるし、恐らくそれが立法経緯の正確な理解だろうと思うんです。

 ただ、今現にある臓器移植法は、それは臓器移植の場面に限ってであるにしても、一定の要件を付した上でであるにしても、脳死は人の死だということを認めた法律だ、そこまで効は認めた法律だということを前提にすることはできると思うわけで、今の臓器移植法を前提に考えるときには、そういった経緯にかんがみて、我々としては、脳死については非常に慎重な立場から、ちょっと重目の要件、重目の条件をそこに課しているんだというふうに理解することができるわけです。

 それを今回、法律を改正することによってその条件を少し緩めるということは、別に根本的な立場を基本的に変えるものなんだというふうにかたく考えなくても、私自身はよいのではないかと。

 要するに、それは後で新しくできた法律をどういうふうに我々が解釈するかという問題で、ある人にとってみれば、それは脳死イコール一律に人の死ということを認めた法律なんだというふうに読むでしょうし、別の人にとってみれば、いや、それはそうではなくて、いわば諸外国並みに適切な要件をそろえた、しかし、脳死とそれ以外のものというのはやはり区別して規定されているので、決してそれは脳死イコール一律に人の死と認めたものではない、それはまた別に我々自身で合意を形成していくべきなんだという考え方も、これも十分可能であるわけで、一定の何かかたい解釈でもって法律をつくっていかなきゃいけないというものではなくて、両方に読めるようなものであるのであれば、それを前提に、要するに結論が正しいものであれば、後でいろいろな理屈をつけることは可能であるわけなのであります。

 私、A案のようなものをつくるというのは、決して脳死イコール人の死というのを一律に前提にしなきゃできないものだというふうには考えませんし、また、そこで合意をちゅうちょする理由もない、もし結論がそれでいいのであれば、そういう結論をとって、法的な目から見ても差し支えないというふうに考えているわけです。

 長くて申しわけございません。

○高橋小委員 ありがとうございました。

 先ほどの御発言の中で、やはり、十二、三歳くらいの子供に死んでから後のことを決めさせるのは不自然であり無理であるとおっしゃって、だからA案でやるというのに対して、どうもそういう整理でいいのかなと逆に疑問を持ったので、今質問させていただきました。

 そういう点で、今、同じテーマを見目参考人に、どのようにそこを整理されているのか。つまり、先ほどお話があったように、脳死は人の死であると基本ができているのだから、あとは一定の子供の年齢ということで線引きをするということでよろしいのか、しかし、一般的にそれを死だと言ってしまえば、拒否する人もしない人も死であるということを受け入れざるを得ないということに対して、どのように整理をされているのか伺います。

○見目参考人 これはまた難しい問題だと思います。

 私は、少なくとも法学者ではありませんから、的確な回答ができるかどうかわかりません。ただし、少なくともA案については、脳死判定を拒否することができるということが入っているわけですから、脳死を人の死と思わなければ脳死判定を拒否することができるわけです。これが、一律にすべて受けなければいけないということであれば問題があると思いますが、少なくとも脳死判定自身を拒否することができるわけですから、したがって、どなたにでも冷静に考えれば受け入れていただける案ではないかと思います。

 お答えになっていますでしょうか。

○高橋小委員 ですから、先ほど来お話ししているように、拒否をしても、それは社会的に脳死なのだよということを言われたときに、今拒否をして生きている子供と向き合っている家族がどういう扱いになるのだろうかということを疑問に思ったということであります。その点については、特に今は見解がないということでよろしいんですね。では、よろしいです。

 次に行きたいと思います。

 中村参考人には、有里ちゃんのお話、本当に心を打ったといいますか、つらい体験を冷静に私たちに聞かせていただいて、本当に敬意を表したいし、感謝を申し上げたいと思います。先に私が感想をほかの参考人の皆さんに対してお話をしたとおり、一番感じたことは今のことであります。きょうの御指摘をいただいて、やはり、拒否できる、できないというだけの問題ではないのだということを、我々がどう受けとめるべきなのかということを非常に考えさせられました。

 きょう、逆に角度を変えて伺いたいのは、きょうのお話の中にも幾つか出てきましたけれども、有里ちゃんがもう亡くなってしまうんだろうと覚悟をしたときに、それをとどめた大きな力が兄弟の励ましであったというお話がありました。一年九カ月という期間に家族がずっと支え合ってきたということが大きな励ましだったと思うんですけれども、この三人のお子さんが、有里ちゃんのことをどのように受けとめ、またその後、今どんなふうに感じていらっしゃるのか、もしお話しできたらお願いしたいと思います。

○中村参考人 三人の兄たちは、それぞれ今、この八カ月前の有里の死を通して、あと脳死と宣告されてからの一年九カ月間、本当に、たったさっきまで一緒に遊んでいたかけがえのない妹が何でこんなふうになってしまったんだろうと、私たち親である大人であってもなかなか受け入れがたい事実がそこにありまして、子供はどのようにそのことを受けとめているんだろうと、私も自分の中で、子供に問いかけたことはございませんが、見ている様子等で感じたことは、人の死ということを、妹の死を通して初めて、人が死んでいくということはこういうことなんだということを八カ月前に目の前で見て、彼らは、人が死んでいくということはこういうことなんだということを実感して感じてくれたと思いますし、人が生きていく、人の命ということをとてもしっかり受けとめているがゆえに、先ほど言いました、リーフレットになぜこんな不公平な書き方ができるんだという発言にもつながってきているんじゃないかなということを、身にしみて感じています。

 私たち大人でも娘の死はなかなか受け入れがたい事実でありましたけれども、子供は子供なりに、人が死んでいくということはこういうことなんだということをしっかり学んでくれたと思っています。

○高橋小委員 子供たちに命の教育といいますか、むしろ、恐れず、もっともっと話し合いをしたり教えていくということが大事なのかなということを改めて考えさせられました。ありがとうございました。

 次に、杉本参考人に伺いたいと思うんですが、著書である「子どもの脳死・移植」を読ませていただきました。御自身が小児科医であり、脳死とは何かなどということもいろいろ書かれたりしている立場であり、かつドナーの親となったという、本当に貴重な経験をされているかと思います。だからこそ、杉本参考人の存在というのは、この臓器移植法の審議に当たっても貴重な、参考になる御意見ではないのかなと思っております。

 先ほど、あえてお話の中で触れていなかったんですけれども、息子さんのことを親の勝手のような言い方をされた、大変自嘲ぎみにおっしゃったわけです。ただ、この本の中で述べられておりますけれども、その決意をされてから、御自身が手術に立ち会って、最後の瞬間まで、心臓が戻ってくるのかなということで奇跡を信じていたというふうなことをおっしゃっています。

 一度は提供するということを決めても、その現場が非常につらいものであるということ、そして、そのつらい家族の気持ちをなかなかフォローができないでいるということも、ほかの経験をされた家族との交流を通して指摘もされているかと思うんです。その点のことを少し紹介していただければと思います。

○杉本参考人 今の御質問は、ドナーファミリーとしてどう思うのかという御質問でいいんでしょうか。小児神経科医としてということではなくて、父親としてどうかということですね。

 基本的に僕のバックグラウンドというのは、ちょうどその事故があったときは自分の全盛期というか一番仕事が乗っているときで、非常にクールで、脳死は死であると断言してもいいぐらいのクールな考え方を持っていたわけですね。ところが、自分の子供がそうなって父親の姿に戻ったときに、実に哀れな、おろおろとした姿に変わってしまっていたということが一つはあると思うんです。

 それから後の仕事というのが、それ以前の仕事と随分と変わってしまったというのでしょうか、当然、重症の心身障害児の方々のサポートも含めた重い人たち、特に自分のことを発言できない人たちの代弁をするような小児科医でありたいということをすごく思うようになりました。それが父親としての、そのときの決断をした一つの生き方ではないかということを思いました。

 そこで、ほかのドナーの人たちとどういう思いの交流があるかといいますと、今ドナーファミリークラブというのがあるんですけれども、僕は一度も出たことはないんですが、柳田邦男さんの討論なんかもいろいろ聞いておりましてもそうなんですけれども、先ほどからありますように、よくやりましたね、それは社会的に評価しましょうね、決してそういう気持ちではないんですね。むしろ個人的な中で、自分たちがやむにやまれずそこで決断をした、それが正しかったのかということでみんな悩んでいます。

 特に子供のドナーの親になった家族の立場からすると、みんなやはり贖罪感を持っています。本当によかったんだろうかと。すきっと割り切って、よかったよかった、それを皆さん感謝してくださいねという思いになり切れないんですね。これは正直なところ、そういう思いを皆さんがお持ちです。

 しかも、そのときの決断が非常に短い期間だったものですから、そのときのことがフラッシュバックしてきて、あれがよかったのか、これがよかったのか、あのときの医者は何という態度だったんだ、いや、この医者はよかったとか、何かいろいろなたびにいろいろなことが、僕も二十三年たちますけれども、まだきのうのことのようにその場面がここに浮かび上がるんですね。

 だから、我々の人生というのは、子供を亡くしたときから質的に家族というのは変わっていくんだろうなと。恐らく、ドナーファミリーというのはみんなそういう経験を持っているんだろうと思うし、大人になって自分でドナーカードをお持ちでやられるということの意味とちょっと違うんじゃないか。むしろそこに重きを置かないと、医学の側から、それからレシピエント側から必要だからドナーも年齢を落としたらというところに討論が単純にいっていいのかなというところは少し、科学的ではないですけれども、そういう思いは持っております。

○高橋小委員 貴重な御意見をありがとうございました。

 福嶌参考人と稲参考人にも伺う予定でしたが、時間が来てしまいまして、きょうは本当に貴重な御意見ありがとうございました。

 これで終わります。

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