高橋ちづ(千鶴)子

1959年秋田県能代市生まれ。青森市の私立東奥女子高校の英語教師。教職員組合の役員や、民青同盟青森県委員会副委員長としても活躍。

1983年11月日本共産党入党。

1999年青森県議会議員初当選。

2003年、衆議院東北比例ブロックで初当選。松本善明さんの議席を引き継ぐ。

農林水産委員会、災害対策特別委員会の委員として東北の農林水産業、相次ぐ災害問題をとりあげる。

2005年9月。解散総選挙で激戦の中、東北のみなさんの力で再選。

2006年1月の日本共産党第24回党大会で準中央委員に選出される。

2010年1月の日本共産党第25回党大会で准常任幹部会委員に選出される。

2010年9月の第二回中央委員会総会で常任幹部会委員に選出される。

現在、党女性委員会副責任者、衆院厚生労働委員、衆院災害対策特別委員、党国会議員団厚生労働部会長、災害対策特別部会長、党食料・食の安全、農林水産対策委員会責任者。

衆院比例代表候補の発表を伝える記事(「しんぶん赤旗」2003年2月15日付「東北のページ」
松本善明議員からのバトンタッチを伝える「東北ブロックニュース」No.59(表面、PDFファイル)
同(裏面、PDFファイル)


高橋ちづ子の生い立ち

家業のすし屋を手伝い─親の苦労を見て育った少女時代─

一九五九年秋田県能代市に生まれる。父はすし屋になるため修業中で家に不在。三つ上の姉と二人の子供を、母は新聞配りをしながら育てた。

小学校入学と同時に小坂町にうつり、すし屋を開業。町で一軒だけのすし屋。会社の宴会や盆、正月など忙しい毎日でした。

ちづ子はおしぼりをたたんだり、醤油

をさしたりお茶をいれたり、お盆運びなどのお手伝いも。日曜日は30分車に乗って父親の仕入れにつきそい、待っている間、父は必ずケーキ屋さんでミルクと卜ーストを頼んでくれたのが楽しみだった。

休みの日が忙しい商売だったため、年一回の家族旅行は重要な行事だった。隣県の岩手(岩泉や花巻)から会津、月山、松島等々、東北の各県もずいぶん歩いた。父親の好みで寺や神社が多かった。もっとも中学の美術の先生の影響で大仏や観音さまが大好き。

「ちづ子は良い子だ」渡辺先生との出会い

小学校時代、赤面症で授業中手を挙げることができなかった。三年間担任した、渡辺睦子先生が生涯忘れられない恩師に。

どもりの男子生徒がつっかえながらも音読をしたとき、「読めるじゃない」とつぶやいただけで「ちづ子は良い子だ」とみんなの前で抱っこして感激した先生。「五色のしか」という国語の授業参観で「(王様は)感動した」という答を引き出すために何度も手を挙げ、「そのとうり」と先生に言われた時の喜びがきっかけで、手を挙げることができるようになった。

四年生の時、班単位で何でも討論しあうクラス運営で民主主義を学び、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉に出会った。イラストやレタリングが好きで、新聞係り、生徒会では小学校で初めて女子の「良いこの会会長」(町内の子供会)になり、同じく女子の副会長と力をあわせて頑張った。

先生になりたい─青森市の私立東奥女子高校の英語教師に─

中学時代、運動おんちというコンプレックスを克服するために、軟式テニス部に入部。筋トレや炎天下の練習のおかげで、試合で活躍できなかったものの、体力とフットワークが身につき、今に生きる。新聞部長になり、多忙を極める。高校は大館桂高校(女子高)に。

一年間、下宿しながら受験勉強などまじめな生活を送るが、物足りなさを感じて二年生になってからソフトボール部に入部。練習ではばんばん打てるのに本番ではアガッて全然だめ。ライトだったが顧問の成田先生は「お前はボールをとってからなげるまでの時間がすごく短いのがいいところ。ライトでもアウトにできるのを期待して配置したのだから」といってくれた。

弘前大学人文学部に入学。回りはいろいろなところから来た知らない人ばかり。「自分を変えたい!」と大学生協の総代、寮役員など引き受けてみた。漫画同好会を立ち上げた。平和問題や消費税問題、教育改革など、活動のなかで学んだ。

先生になりたいと初めて思ったのは、そういう問題意識がめばえて、「本当の事を教える先生になりたい」「人の人生に少しでも関わるような仕事がしたい」と思ったから。出身地の秋田県の採用試験に落ち困っていたとき、青森市の私立東奥女子高校の生徒募集の新聞広告を見て「先生は募集していませんか」といきなり、手紙と履歴書を送る。偶然が重なって、なんと英語教師として本採用になりました。

片道二時間の家庭訪問─補修授業から企業訪問、生徒の就職解決に全力─

東奥女子高校で七年間教師を勤める。交換日誌をしたり、友達のようにこどもたちとつきあった。進路指導を担当し、補習授業から企業訪問まで多忙だった。当時は求人票の整理が膨大で、今から見ると夢のよう。それだけに高卒の就職問題は県議としてライフワークに。いじめや不登校、家出など、さまざまな問題にぶつかったが、夜中に車で心あたりを探したり。私立のため市外の生徒が多く、放課後片道二時間車を飛ばして家庭訪問を重ねたことも。

83年2月、民主青年同盟に加盟。組合のない職場でこれからの生き方を模索していた時代だった。今の社会のゆがみは、アメリカいいなり、大企業優先のあり方に問題があること、どんな問題も科学的に考える(実証し総括など)ものの見方、考え方に共感、人生の「ら針盤」を得たと確信!仕事は忙しかったが、学校帰りに教え子の勤め先を訪ねて民青新聞を勧めたり、配達集金も担当。「松本千津子」(当時松本清張を読んでいた)のペンネームでカット付通信を送った。最大のヒットは、「トマホークくるな」の全国集会が三沢市で開かれたとき、ルポを送り、一面を飾って通信員賞をいただいたこと。

夢中で活動している時、断る理由が何もなくなって83年11月に入党。「どうせなら、もっと勉強も活動も十分やれる学生時代に入ればよかった。でも小林多喜二と同じくらいだからいいか!」

翌朝、学校へ通ういつもの道なのに、なぜか心がはずんでスキップするような感じだった。「ワーイ、私も日本共産党の一員になったぞ」

私学の教師という身では公然と活動することは難しい。そういう中で、各種集会への参加、企画など活動の幅は広がっていった。職場では手描きの学級つうしんを毎週発行、読ませたい本の紹介、文庫もそろえた。先生方も各自つうしんを出すようになった。当時、「社会党なのかな?」と思っていた先生もいた。

──民青新聞の青年文化コンクールにたった1回出した作品、佳作だった──

「曲げた髪 精一杯の 自己主張 にらみ返す目 幼さ残る」

生徒たちを思って書いた一作。

88年秋田市内の病院で長く闘病生活をしていた父親が他界。

最後に担任した生徒たちと(1988年)
参院補選の候補者として(1991年)
 その年党の候補者に要請されるが教師をやめたくなかった。しかし活動を通して知り合った和弘と結婚、出産という転機がおとずれ、退職を決意。

一九八九年六月、日本共産党青森県委員会に勤務。一九九一年二月の参議院補欠選挙に31才で初出馬。以来衆参六回の国政選挙に立候補。一九九六年には東北ブロック比例候補になり、松本善明衆議院議員とともに、東北六県を駆け回る。

故郷小坂町ではじめての演説会。前の町長さん、中学の同級生、角の駄菓子やのおばさんなど、聞きにきてくれた。99年4月に青森県議に初当選。12月に母親が突然倒れて他界しました。



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